コラム:台頭する「円安国患論」の正否を問う=植野大作氏 15-Dec 15:42

自民党総裁選後に急激に進んだ円全面安の動きを受け、市場の一部で「円安国患論」が強まっている。国際競争力のあるモノ作りの拠点の多くが海外に流出して貿易赤字体質が定着しつつある近年の日本では、円安が進んでも昔ほどは輸出が伸びなくなっており、輸出競争力の向上による円安メリットは低減している。

また、あまり急激に円安が進み過ぎると輸入品の支払い代金が膨らむため、国内での販売価格に転嫁できなければ企業収益が目減りする一方、転嫁された場合は最終商品の店頭価格が上がるため、家計の痛手になる。どちらにしろ、円安による輸入コスト上昇の負担は誰かが負わねばならない。

改めて指摘するまでもないが、日本は国際的にドルで取引される燃料、農産物、金属鉱物などの自給率が低いので、特にドルに対して円安が進むと海外への所得移転が生じやすい。加えて、近年の日本では個人生活や企業活動の効率化に必要なデジタルインフラの独自基盤が不足しているため、円安が進むと「デジタル赤字」も拡大する。

実際、近年の日本では企業の価格改定が集中する時期に日用品や食料品の「値上げラッシュ」が起きており、家計に占めるデジタル支出も増加傾向にある。我々の日常生活の実感からも、「円安国患論」を身近に感じる機会が増している。そのような状況を受け、日本政府要人による円安けん制の口先介入が頻発している。

ただ、最近の円安進行は本当に日本にとって悪影響の方が圧倒的に大きいのだろうか。平成の頃までと違い、令和の日本は貿易・サービス収支が赤字基調になったので、その面だけに焦点を当てると、円安のメリットよりデメリットの方が大きそうに感じるのは事実だ。

一方で、ドル/円やクロス円相場が歴史的な円安水準に振れたことによる影響もあり、近年の日本では海外からの観光客が増えて旅行収支の黒字は過去最高記録を更新している。コロナ禍の不況期に一時激減したインバウンド消費の大復活で、多大な恩恵を受けている企業や個人は相当いるはずだ。

また、現在の日本は世界有数の対外純資産国であり、昨年末の資産から負債を控除した対外純資産残高は、553.1兆円もある。このため、そこから上がってくる利息や配当で稼ぐ第一次所得収支の黒字は、貿易・サービス収支の赤字を遥かに超える年間40兆円前後に達しており、経常収支は未だに安定的な黒字基調だ。

もちろん、第一次所得収支の黒字が拡大しても、国内での生産活動によって生み出されるモノやサービスの付加価値である名目国内総生産(GDP)は増えない。だが、「国民の豊かさの指標」である国民総所得(GNI)は増加する。

近年の日本は、「モノ」や「サービス」ではなく「資本」を輸出して利息や配当で黒字を稼ぐ国に移行しつつあるので、円安のメリットは見えにくい。ただ、近年進んだ円安によって保有している外貨資産の評価が上昇すると同時に、利配収入の受取額が増えて喜んでいる個人や企業も沢山いると推測される。

値上がりするとほとんどの関係者が幸福になる株価と違い、為替相場は円高、円安どちらに振れても、「モノやサービスの輸出入のどちら側の組織に所属しているのか」、「外貨建て資産をどの程度保有しているのか」など、当事者の立場によって利害が錯綜する。その際、為替変動による損害を受けた側の人や企業は声高にその悪影響を主張する一方、望外の利益を得ている側は、それを吹聴せずに静観していることが多い。

一般に、世上の耳目は騒動が起きている側に集まりがちだ。このため、為替が円高に振れると円高の悪影響が喧伝されて「円高悪玉論」が台頭する一方、円安に振れると円安の悪影響が脚光を浴びて「円安国患論」が紙面や画面を賑わす傾向にある。しかし、現実には為替は円安・円高どちらに振れても日本経済に対する悪影響と好影響が同時に波及してくるので、どちらか一方だけを強調し過ぎると事実を見誤る。

いまさら指摘するまでもないが、日本は今から半世紀以上も前に為替変動相場制に移行して現在に至っている。円貨と外貨の交換レートの決定は市場に委ね、「市場が決める為替レート」をありのままに受け入れることが、中長期的にみると当該国にとって最適な資源配分を促すという「市場重視」の理念がその根底にある。

例えば日本の長期金利は、「今すぐ使えるお金」と「将来になるまで使えないお金」の交換価値だが、「日本にとって最適な長期金利」の水準や方向は、当該時点における経済・物価情勢に応じて絶え間なく変化している。一方、為替レートは「外国のお金」と「日本のお金」の交換価値だが、当該時点における適正な水準や方向についての考え方は、基本的には金利と同じだ。金利や為替は市場環境に応じて柔軟に上下することが日本の国益に叶っている。

為替相場の予測をなりわいにしている立場上、筆者はそのような市場重視の考え方を信奉している。誤解を恐れず言い切るなら、「市場が決める為替レート」は原則として常に正しく、「神の見えざる手」が動かしている為替相場の善悪を正確に断じることが出来るほどの深い英知を備えた人間が、この世にいるとは思えない。

思わぬ為替変動に巻き込まれて判断を誤るのは常に人間の側であり、「市場が決める為替レート」を市場が間違うことはない。「市場が決める為替レート」に対しては、尊崇意識をもって接する必要があり、2017年5月の主要7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議の共同声明でも、各国がそれを尊重して受け入れるという原則が共有されている。

もちろん、上記G7の共同声明では、「為替レートは市場において決定される」との大原則をうたいつつも、「為替レートの過度の変動や無秩序な動きは、経済および金融の安定に対して悪影響を与え得る」との認識も明記されている。

そのような共同声明の原則に沿って、日本政府は22年の7月から9月にかけて総額9.19兆円、24年の4月から7月にかけて同15.32兆円ものドル売り・円買い介入を実施。当局が「過度の変動」と判断したドル高・円安の動きを制御した実績がある。

日本経済に与える影響が大きいドル/円相場が短期間に急激に動くと企業や家計の経済活動に不測の悪影響が及ぶのは事実であり、日本の通貨政策を司る財務大臣には、口先介入による口頭注意のみならず、折に触れて「市場が決める為替レート」の速度や値幅を制限する実弾による為替介入を実施する権限が与えられている。

そのような状況認識の下、今年10月に発足した高市早苗内閣の財務相に就任した片山さつき氏の語録をみると、ドル/円相場が節目の150円00銭を突破したあたりから口先介入の頻度が増しており、最近の円安については「一方的かつ急激で憂慮している」、「過度の変動や無秩序な動きには断固たる措置をとる」、「為替介入も当然考えられる」との警告を発している。

筆者の個人的な所感では、政府がドル売り介入を再開するのは、昨年の夏に記録した高値の161円95銭を超えてからだとみているが、最終的に介入の要否を判断するのは片山財務相や三村淳財務官だ。財務省が介入の必要性を判定する際の基準が不明確なこともあり、ドル売り介入が再開される為替相場の水準や時期を部外者が特定するのは難しい。

ただし、仮に現下の局面で政府がドル売り介入を再開しても、相当巨額の外貨準備を取り崩さなければ、一時的な効力しか発揮できない可能性がある。今秋の自民党総裁選後に観測された約6週間で10円を超えるドル/円相場の高騰は、大幅かつ一方的ではあったものの、ファンダメンタルズから逸脱した「無秩序」な動きであるとは限らないからだ。

高市内閣発足前後に観測された日本の長期金利の上昇と円安は、積極財政と金融緩和を志向する「サナエノミクス」の推進観測に根差している可能性が高い。足元のインフレ率の実績値が政府目標の2%を超える3%界隈で高止まっている状況の下でリフレ政策を採用すれば、長期金利が上昇して通貨安が進むのは、ある意味自然な市場反応だと言える。

蛇足になるかもしれないが、22年秋に英首相に就任したトラス氏が放漫財政策を表明した直後に勃発した英株安・債券安・ポンド安の「トラス・ショック」は、一時的には深刻な金融市場の混乱を招いたものの、結果としてトラス内閣退陣の呼び水になり、「政府が野放図な財政出動に動こうとした際に、市場のチェック機能が正常に働いて財政規律の瓦解(がかい)を防いだ」という観点では、健全な警鐘だったと評価することも可能だ。

もちろん、当時の英国と現在の日本の国際収支の状況を比べると、英国はほぼ恒常的な経常赤字国で対外純債務を抱えている一方、日本の経常収支は第一次所得収支が中心とはいえ、安定的な黒字基調で対外純資産の累増が続いている。

このため、約3年前の秋に英国で勃発した「トラス・ショック」級の騒動が、今の日本で再現される可能性は低い。ただ、新内閣の発足前後に観測されている長期金利の急騰を伴う円安が、高市内閣が進めようとするリフレ策に対する市場の警告である場合、ファンダメンタルズに即した正常な動きである可能性もある。

このため、今後の外国為替市場で政府のリフレ政策への懸念を背景とした円安が一段と進む可能性は否定できない。その場合、政府が巨額の外貨準備を取り崩してドル売り介入を発動すれば一時的に円安の流れが淀む可能性はあるものの、円安圧力の根本的な発生因である市場の懸念を除去する方向に政策のベクトルを改めない限り、介入効力の持続性には疑問符が付きまとう。予断を持たずに今後の展開を注視する必要がある。

編集:宗えりか

*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。

*植野大作氏は、三菱UFJモルガン・スタンレー証券のチーフ為替ストラテジスト。1988年、野村総合研究所入社。2000年に国際金融研究室長を経て、04年に野村証券に転籍。国際金融調査課長として為替調査を統括、09年に投資調査部長。同年7月に外為どっとコム総合研究所の創業に参画、12月より主席研究員兼代表取締役社長。12年4月に三菱UFJモルガン・スタンレー証券入社、13年4月より現職。05年以降、日本経済新聞社主催のアナリスト・ランキングで5年連続為替部門1位を獲得。

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