近年、通貨のデジタル化の動きがじわりと加速している。米国では、価格が法定通貨に連動する暗号資産(仮想通貨)であるステーブルコインの存在感が高まっており、法整備の議論が進行中だ。一方、中国では中央銀行デジタル通貨(CBDC)のクロスボーダー利用が拡大している。欧州でも、CBDC導入に向けて準備を加速している。
国際的なデジタル通貨の攻防に火をつけたのは、2019年6月にメタ(旧フェイスブック)が発表したステーブルコイン「リブラ」だった。しかしリブラは、同年10月に開かれたG20が監視を強化する姿勢を示したことなどから、3年弱で頓挫した。
その後活発化したのがCBDCの開発である。リブラ計画の発表で、国際的に流通するデジタル通貨の誕生に多くの国が危機感を抱いた。CBCDの開発にとりわけ積極的だったのが中国だ。もともと中国政府は、人民元の国際地位向上を戦略的に進めていた。15年には、世界の銀行間の決済システム「国際銀行間通信協会(SWIFT)」に対抗し、「人民元クロスボーダー支払システム(CIPS)」という独自の決済システムを構築した。16年には人民元が国際通貨基金(IMF)の特別引き出し権(SDR)通貨バスケット入りを果たし、次の一手として、デジタル人民元の国際決済利用を推進した。
<CBDCとステーブルコインの違い>
デジタル通貨のメリットは、一般に、1)銀行口座を持てない人々にも決済機能を提供できる、2)紙幣に比べて取引コストが安く社会全体の効率化が図られる、3)タンス預金の概念がない(基本的にオンラインで保有される)ため、マイナス金利をより多くの層に適用することができる、4)国外持ち出しをより厳密かつリアルタイムで捕捉できる──などがある。
CBDCとステーブルコインはいずれもデジタル通貨だが、運営主体が大きく異なる。CBDCは各国の政府または中央銀行が発行体となるのに対し、ステーブルコインは、テザー社やサークル社等の民間企業である。ステーブルコインは、CBDCほど信用がないため、これを補完するための安定資産を持つ必要がある。
現在、世界で本格的に流通しているCBDCは、中国、バハマ、ナイジェリアの3か国等に限られる。このうち、世界一使われているCBDCはデジタル人民元である。デジタル人民元のクロスボーダー取引額は急速に増加しており、24年の取引額は1.2兆ドルを超えた。それ以外の国々についても、今年2月時点で世界のGDPの98%を占める134の国々がCBDCの導入を何らかの形で検討しているとされる。ちなみに日本は、導入の判断はしていないものの、23年からパイロット段階に入っている。
一方、ステーブルコインは、リブラの頓挫で国際的な決済通貨としての開発は影を潜めたが、その後、値動きの激しい暗号資産への投資の滞留資金等としてプレゼンスを高めている。世界的には現在250種類以上のステーブルコインが存在し、時価総額は37兆円に上る。特に最大のUSDT(別名テザー)とUSDCは、いずれも米ドルに連動しており、ステーブルコイン全体の時価総額の8割以上を占めている。注目すべきは、その取引量である。ステーブルコインの昨年の総取引額は27.6兆ドルに達し、暗号資産業界での取引が大半とはいえ、昨年のビザとマスターカードの取引総額を上回った。
CBDCに比べてステーブルコインの方が盛り上がりを見せている理由は、国民の同意が不要ということもあるが、運営主体が得られる収益の魅力も大きい。ステーブルコインの運営業者は、国債等の資産の投資収入を得る一方、発行する疑似通貨は原則として無利子だ。世界最大のステーブルコイン発行体であるテザーは、わずか100人余りの従業員で、シティグループを上回る130億ドル(1.9兆円)の純利益を稼いでいる(24年度)。
<中国を軸とするデジタル通貨覇権争い>
それでも、強力なCBDCができれば、信用力で劣る民間のステーブルコインへの需要は低下するだろう。CBDCで圧倒的に先行する中国に危機感を持つ欧州では、CBDCの開発を加速している。今月70社からなる「イノベーションプラットフォーム」をローンチ、今後、決済機能の試験を行いユースケースを調査する。今年10月に導入の有無を最終的に決定する予定だ。
米国も黙ってはいない。バイデン前政権は、22年にCBDCの検討を発表した。ところがトランプ氏は、就任早々CBDCの発行を禁止する大統領令に署名した。代わりにトランプ氏は、民間ベースのステーブルコインの推進を表明。トランプ一族が経営にかかわるワールド・リバティ・ファイナンシャル社は3月、「USD1」というステーブルコインを発行することを明らかにした。現在のUSD1の時価総額は21億ドル(約3000億円)に上る。アブダビの投資会社がバイナンスに投資する際に、このUSD1が利用されたとの報道もある。
トランプ氏は、ステーブルコインが広く活用されるよう、セキュリティーを担保し、透明性を高めるような法整備を支持している。今年に入りステーブルコインに関する2つの法案が上下院それぞれの委員会を通過した。上院の法案は通称「GENIUS法」とされ、5月8日には、本会議に進めるための必要な賛成数を得ることに失敗したが、関係者は再チャレンジを検討していると伝えられている。下院の法案は「STABLE法」と呼ばれ、引き続き議論が続いている。
<デジタル通貨は基軸通貨になりうるか>
世界の通貨のデジタル化は今後も間違いなく進むだろう。それは、決済情報がデータ化されやすくなることを意味する。国際的な商流データを握ることの恩恵と、逆に他国に握られることのリスクは極めて大きいことから、国際決済におけるデジタル通貨の覇権争いは一層激しくなるだろう。
もちろん、法定通貨の中での米ドルの覇権は当面揺るぎそうにない。しかし、自ら自由貿易の舞台から降りつつある米国の通貨が唯一絶対の基軸通貨であり続けられるのかどうかには、わずかながら疑問もある。
何らかのデジタル通貨がその地位に近づく可能性があるとしたら、それは中国やユーロ圏のCBDCなのか、民間企業のステーブルコインなのか。信用力の面では、政府がバックにいるCBDCの方がステーブルコインよりも圧倒的に強い。しかし、CBDCは、その国の信用力から逃れることはできない。一方で、ステーブルコインの(暗号資産業界内の取引が大半とはいえ)取引量はクレジットカード並みに増加しており、侮れない存在になっている。もし、その裏付資産が、例えば金(ゴールド)や主要国の通貨バスケットなど、一国の信用力に左右されにくいものに設定された場合、米政府に危機が迫った瞬間に、一気にプレゼンスが高まるかもしれない。デジタル通貨の動きは、世界の通貨とそれに関わる情報戦の勢力図を変える可能性を秘めている。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*大槻奈那氏は、ピクテ・ジャパンのシニア・フェロー。東京大学卒業、ロンドン・ビジネス・スクールでMBA、一橋大学ICSで博士(経営学)。スタンダード&プアーズ、UBS、メリルリンチ、マネックス証券などでアナリスト業務に従事。2022年9月より現職。名古屋商科大学大学院教授を兼務。
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