カンザスシティー地区連銀主催の経済シンポジウム、いわゆるジャクソンホール会議にて、パウエル米連邦準備理事会(FRB)議長は慎重ながらも利下げを検討する意向を示した。これを受け、米国の長期金利が低下し、ドル安が進んだ一方、米国の主要株価指数は軒並み上昇した。パウエル氏が労働市場の悪化を理由に挙げた為、9月5日に控える8月雇用統計にて労働市場の劇的な改善がみられない限り、9月の利下げはほぼ確実であろう。本稿では今年の米ドルを振り返るとともに、ドル相場の論点を整理し、今後の動きを展望する。
<年初来のドル安の背景>
年初来、ドル指数は最大で12%以上も下落した。ドル安の背景として、景気減速に伴う利下げ観測の台頭に加え、ドルの信認低下が挙げられる。4月に相互関税の詳細が発表されると、米ドルや米ドル建て資産離れをカタリストに米国はトリプル安に見舞われた。トランプ政権がドル安誘導を企図しているとの見方が台頭したほか、トランプ大統領のFRBに対する執拗な利下げ圧力が中銀の独立性に対する市場の疑念を深め、ドル売りを誘った。さらに、トランプ減税の恒久化を含む大型減税法案の審議を横目に、財政悪化への懸念が高まったこともドルの信認を傷つけた。この結果、4月から5月にかけ、長期金利が上昇しても、「悪い金利上昇」とみなされてドル安が進むなど、金利とドルが逆相関の関係に陥った。
<ドルの信認低下のその後>
一方、足元ではドルの信認は改善しつつある。例えば相互関税を巡っては、多くの国や地域と合意に達した。ブラジルやスイスなど、高い税率で決着したケースもあるが、市場が嫌う不透明感は薄らいだ。今後、米中関税交渉がよほどこじれない限り、相互関税がドル安材料となる事態は回避されそうだ。
トランプ政権のドル安志向についてもベセント財務長官が明確に否定した。貿易収支不均衡の是正に対するトランプ政権の主たる手段は国や地域別に税率を決めることができる関税であって、横断的にドル安を求めるわけではないはずだ。そもそも経常収支の赤字国である米国は海外勢に米国債を買ってもらうべき立場にあり、ドル安誘導といった選択肢は取り得ない。このほか、7月4日にはトランプ氏の大型減税・歳出法(OBBBA)が成立したが、それに伴う財政赤字拡大のかなりの部分を関税収入が賄う形となりそうだ。
S&Pグローバル・レーティングスも8月18日、関税収入を考慮し、米国の信用格付けを「AAプラス」に据え置き、見通しも「安定的」を維持した。いわゆる「悪い金利上昇」のバロメーターでもある10年物タームプレミアムも5月下旬をピークに拡大に歯止めがかかってきた。こうした環境の変化を踏まえ、ドル指数は金利と同一方向に動く順相関の関係性を取り戻しつつある。
<米国の景況感>
従って、今後のドル相場を展望する上では米国の金融政策が重要となってくる。そこで米経済の現状をいくつかの指標で確認しよう。まず、パウエル氏も指摘した通り、労働市場は悪化している。非農業部門雇用者数(NFP)は5月、6月を合わせて約25万8000人と過去最大の下方修正がなされた。2022年のピーク時には2倍以上もあった失業者数に対する求人件数も直近では1倍程度へ低下してきた。
ただし、24種類もの労働市場に関連する指標から労働市場を俯瞰するカンザスシティー地区連銀の雇用動向指標(LMCI)によれば、4月から5月の落ち込みはさほど急なものではない上、6月は5月より小幅に改善している。NFPだけを以て大幅かつ連続利下げを見込むのは早計だろう。次に、経済の現状をダラス地区連銀が提供する「ウィークリー・エコノミック・インデックス」でみると、8月21日時点で米経済は前年比2.5%成長を維持している。算出に用いられる10種類の生産、消費、雇用に関連する日次、週次データの内、例えばウエートの高い「同一店舗小売売上高」をみると、8月は3週続けて前年比5%台後半と7月よりも高い伸びをみせている。5月以降の堅調な株式相場が資産効果を通じて個人消費を支えている模様だ。
一方、カンファレンスボードの景気先行指数は低下し続けており、景気の見通しは暗い。とは言え、過去半年の指数押し下げ要因として目立つのは、消費者ビジネス・経済期待指数とISM新規受注指数であり、どちらも関税交渉の進展と利下げ期待によって、これから持ち直す公算が大きい。
以上を踏まえると、少なくとも9月の利下げ幅が50ベーシスポイント(bp)に達する可能性は低く、その後の利下げペースもデータ次第となろう。本稿執筆時点で市場は年内2回の利下げを完全に織り込んでいるが、仮に9月の利下げだけにとどまる場合、かなりのドル買いが誘発されそうだ。差し当たって、9月の連邦公開市場委員会(FOMC)で示される政策金利の予想分布図、いわゆるドットチャートに注目だ。
<そもそも利下げはドル安要因なのか>
ドルを展望する上では、金融政策や政策金利に加え、長期金利の動向も重要である。なぜなら、昨年の米ドル指数は、長期金利の上昇を支えに9月以降、計100bpの利下げを横目にその安値から約8.3%も上昇して年末を迎えたからだ。昨年は秋以降、大統領選でのトランプ候補の勝利と財政拡張が連想された結果、市場のインフレ期待、ブレークーブンインフレ率が上昇し、「悪い金利上昇」の一種、タームプレミアムも拡大。長期金利が1%ポイント以上も上昇し、為替市場でのドル高を誘発した。足もとでは先述の通り、タームプレミアムの拡大に歯止めがかかっており、これ自体は長期金利の低下要因だ。ただ、これは「悪い金利上昇」に伴うドル安圧力の緩和を意味し、必ずしも米ドル安要因とはならないだろう。
それよりも消費者物価指数の内、食品とエネルギーを除くコア指数および住居費を除くサービス価格を示すスーパーコア指数の前年比の伸びに再拡大の兆しもみられており、パウエル氏の講演後、ブレークイーブンインフレ率は上昇しつつある。利下げを織り込む過程で長期金利は講演後に低下したが、インフレ期待を支えに反転する可能性も十分だろう。米ドルは長期金利との順相関の関係性を取り戻しているだけに、昨年同様、利下げを横目にドルは長期金利に支えられ、底堅く推移する可能性が高い。
<その時、ドル/円は>
円相場に関して言えば、日銀が年内利上げに踏み切ったところで、必ずしも円高に反転するわけではないだろう。例えば、日米関税交渉が合意に至ったと報じられた7月23日、オーバーナイト・インデックス・スワップ(OIS)市場では日銀の年内利上げに関する織り込みが55%から約9割まで高まったが、ドル/円の反応は限られた。市場では時期を巡る見方こそ割れているが、利上げそのものにサプライズはないのだろう。ただでさえ、名目金利からインフレ率を差し引いた日本の実質金利は、政策金利、長期金利ともマイナス圏に位置しており、円安圧力は根強い。次回の展望レポートが出される10月の金融政策決定会合にて利上げが見送られた場合はもちろん、利上げがあった場合でさえ、追加利上げ期待が持続するメッセージ抜きに、円高は進みにくいであろう。従って、ドルが底堅く推移するとすればそれはそのままドル/円にも波及するとみられる。米国の利下げ開始後、ドル/円が150円大台を回復する可能性は全く低くない。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*内田稔氏は高千穂大学商学部教授、株式会社FDAlco外国為替アナリスト、公益財団法人国際通貨研究所客員研究員、証券アナリストジャーナル編集委員会委員、NewsPicks公式コメンテーター(プロピッカー)。慶應義塾大学卒業後、東京銀行(現・三菱UFJ銀行)に入行し、マーケット業務を歴任。2012年からチーフアナリストを務め、22年4月から高千穂大学商学部准教授、24年4月から現職。J-money誌東京外国為替市場調査では2013年より9年連続個人ランキング1位。国際公認投資アナリスト、日本証券アナリスト協会認定アナリスト、日本テクニカルアナリスト協会認定テクニカルアナリスト、経済学修士(京都産業大学)。YouTubeチャンネル「内田稔教授のマーケットトーク」では解説動画を公開している。
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