日銀の12月の金融政策決定会合に向けて、金融市場で中立金利に対する関心が高まったことは記憶に新しい。しかし、同会合後の植田和男総裁の会見では新たな推計が示されず、推計の不確実性が再度強調されたことで、金融市場の関心は再び低下したように見える。
<中立金利を巡る議論>
それでも日銀が緩やかな利上げを続けるとすれば、金融緩和の度合いがどの程度なのかを探る上で、日銀にとっても金融市場にとっても政策金利と中立金利との距離感が問われ続ける。筆者は、この点に関する日銀と金融市場との対話の上で中立金利は引き続き重要な要素であると考える。一方、推計の精緻化という技術的な課題の以前に、いくつか克服すべき課題がある。
<政策運営上の意味>
今回の局面での最大の問題は、中立金利と利上げの最高到達点(ターミナルレート)が同一視されやすい点だ。
この見方が成立するためには、経済が潜在成長率近傍で推移すると見込まれる下で、利上げの波及効果の時間的ラグを考慮に入れた上で政策金利が最高になるのと、基調的な物価が目標に向けて収れんするタイミングが一致する必要がある。「展望レポート」に示された経済や物価の見通しはそうした整合的な姿を示しているが、実際にはさまざまなリスクによって経済や物価は変化する。つまり結果としてターミナルレートが中立金利に達しないことも、中立金利を上回ることもありうる。
実際、植田総裁だけでなく米欧の中央銀行総裁も示唆するように、中立金利が正確にどこにあるかを最終的かつ正確に把握する上では、計量モデルの精緻さを高めるよりも政策変更に関する経済や物価の反応を確認することが必要だ。このため、日銀が引き締めを意図していなくても、利上げの最大到達点が中立金利の上になる可能性はある。
今回の局面で議論を難しくした日本固有のもう一つの理由は、2024年から開始された利上げにおいて、金融政策の「正常化」という日銀のミッションが意識されたことだ。実際、0.75%という政策金利の水準は30年ぶりの高さであり、「金利のある世界」への回帰を印象付けている。
しかし、金融市場も予想するように政策金利が今後も緩やかに上昇していくとすれば、中立金利に関する推計の幅を考慮しても、「正常化」というロジックの意義は徐々に低下することになる。これに代わって浮上するのは、経済や物価の見通しに沿って、政策金利を上下双方向に柔軟に調整するという米欧では普通の政策運営だ。
この段階に入れば、経済や物価の動向次第で利上げの最高到達点が中立金利と異なることもあり得るとの認識が広がることが期待される。
<対話の手段としての意味>
金融市場が中立金利に関心を強めることに対して、日銀は、中立金利の推計値が「金科玉条」として過度に焦点となり、「数字が一人歩きする」との懸念を持つことが考えられる。こうした懸念にはもっともな面があり、日銀だけでなく、米欧の中央銀行総裁による記者会見でも、そうした印象を受けることは少なくない。
この点に関しては、自戒も込めて言えば、金融市場からも中立金利に関する独自の様々な推計を提示することで、日銀との間で中立金利の水準を巡る建設的な議論が行われることが望ましい。日銀のワーキングペーパーが示すように、推計のための計量モデルは一長一短という面があり、将来予測の正確さにも短期と中長期との違いがあり得る。
また金融市場は、中立金利自体の推計でなくても、中立金利に影響を与える投資や貯蓄の変化、企業や家計による資金調達、企業における生産性や収益性の向上などの要素について豊富な知見と情報を有している。日銀による推計をそのまま受け入れるのではなく、これらをもとにその妥当性をチェックすることも可能である。
金融市場がこうした作業を行うことで、推計の不確実性を実感するとともに、中立金利は時間とともに変動し得るとの理解を日銀と共有することは大変重要だ。そうした対話の中で、日銀が新たなデータによる新たな推計を提示すれば、「ゴールを動かした」という批判に直面するリスクも低下する。また、金融市場が自らの推計に基づいて金融緩和や引き締めの度合いを判断し、市場金利や資産価格に反映させるようになれば、市場金利や資産価格は新たな情報としての価値を強めるようになる。
そんなことが本当に可能なのかという疑問もあろうが、日本には身近な先例がある。それは物価目標である。
物価目標の導入に際しても、「目標が独り歩き」してインフレ率が2%を下回ったら直ちに金融緩和、上回ったら直ちに金融引き締めの圧力が各々高まるとの懸念があった。それでも日銀はコロナ禍後のインフレに際して、供給要因の重要性を強調したり、基調的な物価という概念を導入したりすることで、インフレ率に対する機械的な反応は行っていない。これは、柔軟な物価目標の運営として欧米で実践されてきたとおりである。
これに対して、金融市場にはビハインド・ザ・カーブ(後手に回ること)を懸念する声もある一方で、慎重な利上げを求める声もあるが、いずれも経済や物価のファンダメンタルズを幅広く踏まえた議論であり、実際のインフレ率と2%目標との乖離(かいり)に基づく機械的な議論はほとんど見られない。中立金利についても、今後の日銀と金融市場との対話を通じて、より柔軟な捉え方が定着することが期待される。
<中立金利の意味合い>
中立金利の意味合いを改めて整理すると、第一に、中立金利は金融引き締めや緩和の程度に関して、日銀と金融市場が対話する上での重要なツールである。もちろん実際の政策運営においては単一の指標でなく、経済や物価の動向や先行きに関する様々な情報や分析とともにあくまでも要素の一つとなる。
第二に、中立金利は時間とともに変動し得る。中立金利のベースとなる自然利子率は構造的な要因で決まる面が多いが、日本では投資と貯蓄、生産性といったファンダメンタルズが以前よりも大きく変化する可能性がある。その意味で、推計は日銀と金融市場の双方において常にアップデートされることが望ましい。
第三に、政策金利が中立金利の推計レンジに入った場合、その後の政策変更はより慎重に行う必要がある。当然のことと思われるかもしれないが、中立金利の推計には不確実性がある以上、最後のアプローチは、日銀だけでなくどの中央銀行であっても経済や物価の反応を見ながら手探りで進めざるを得ない。過度な利上げや利下げを後から修正することは技術的には可能だが、政策効果の時間的ラグを考えると経済や物価への負荷が大きく、望ましいやり方ではないからである。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*井上哲也氏は、野村総合研究所の金融イノベーション部シニアチーフリサーチャー。1985年東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。米イエール大学大学院留学(経済学修士)、福井俊彦副総裁(当時)秘書、植田和男審議委員(当時)スタッフなどを経て、2004年に金融市場局外国為替平衡操作担当総括、2006年に金融市場局参事役(国際金融為替市場)に就任。2008年に日銀を退職し、野村総合研究所に入社。金融イノベーション研究部・主席研究員を務め、2021年8月から現職。主な著書に「異次元緩和―黒田日銀の戦略を読み解く」(日本経済新聞出版社、2013年)など。
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